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宋梅の故郷 宋家店村を尋ねて

8/1から一週間、蘇州に出張し、そのまま夏休みに入ったので、前から行ってみたかった杭州、紹興を4日間ひとりで旅行してきました。
仕事が予定どうりに終われるかわからなかったので予約も何もなしで、とりあえず上海空港に余分な荷物を預けた後、汽車で杭州へ向かい、初日は西湖の畔のホテルをベースに西湖周辺を遊覧。本屋で買った地図を見たら何と”宋梅の故事”に書いてあった”宋家店”という村があるではありませんか!
2日目、杭州から紹興に行き、タクシーを拾い地図を見せて頼んでみると大変親切な運ちゃんで途中、道行くおじいさん、おばさんに尋ねながら”宋家店”まで行ってくれました。

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   遙か昔、宋錦旋さんが蘭を捜して歩いたであろう山々

村役場の人は2百数十年前の話を読んでこんな山奥まできた日本人にあきれていましたが、”いまこの村に蘭をやっている人はいない、漓渚鎮という村には花木市場があるので蘭もあるはずだ”と教えてもらい、また尋ね尋ねしながら諸さんという方の蘭苑に行き着き、御棚を見せて頂くことができました。
苑主の諸さんはわりと若い方で、突然の訪問にも関わらず、また、この時期なので蘭を買うわけではない見せてもらうだけになるがよいかとお断りしたのですが大変歓待していただき、逆に病気や栽培環境のことでは質問攻めに合いました。
マンガや筆談での会話ながら楽しいひとときを過ごし、花の時期のまたの来訪を約束して別れました。

『3秒で話す中国語』と地図を片手のいきあたりばったりの旅で、はじめは、内心、ホテルにしろ、タクシーにしろ法外にぼったくられるんではないか、どこかで身ぐるみはがされるはめになったらどうしようなどと不安もありましたが会う人すべて親切なよい人ばかりで、ますます中国が好きになる旅でした。

浙江省の地図には湖州、嘉興、蕭山、余姚、四明山、会稽山 ・・・といった中国蘭ゆかりの地名がたくさん載っており、嘉興の市街図をみると老十円の舞台となった落帆亭もあって、今回はその極一部をほとんど素通りしただけでしたが、わくわくする旅でした。
今度はもう少し中国語が話せるようになってまたぜひ尋ねてみたいと思っています。

写真 : マイフォト>杭州・紹興の旅2004.8月 よりどうぞ

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老十円の故事

中国春蘭四天王のひとつ”老十円”の物語です。

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《蘭蕙同心録》の著者の許霽楼先生はかつて春蘭の老十円について
   月様団欒花様嬌,金銭争買暗魂銷;
   如何魚目珠同混,銅雀春深有二喬
と詠んだ。
老十円が満開の時を満月に、その花の形、色の美しさを三国時代の絶世の美女二喬に例えている。
 さて清の道光の後期、大運河は南北交通の要であった。
その蘇杭の両岸の田畑を天でつないで、広々とした水面には多くの帆船が行き交っていた。
しかし嘉興を横切る時、すべての船は先にどうしても帆を降ろし、マストを倒して、“端平”と“北鯉”の二つの低い橋を通過しなければならなかった。
橋の前に立つ“落帆亭”の名の由来である。
 落帆亭の後ろには、“修拡寺”というお寺があって、毎日早晩、行き来する船の船頭は、はるか遠くから低い鐘の音を耳にすることができたので、いつしかこの落帆亭と修拡寺は、往来する船舶の一里塚となった。
 ある日の午前、1隻の大きな木造船が突然落帆亭のあたりに止まると、船倉から白髪混じりの髭を生やした、やせた雲水の僧が出てきて、岸に跳び降りた。彼は頭をもたげて黄色い塀の中央の大きい門の上にかかげられた“修拡宝刹”という大きな4文字を見上げると、歩いて門を入り、寺の中の僧侶に両手で合掌して“阿弥陀仏“を念じ、すぐ持っていた黄色い朝山袋から”度牒”を取り出し、寺の僧侶と応対した後、この寺に起居するようになった。
毎日僧徒と一緒に念仏を唱えお経をあげるほか、暇な時には寺の裏の菜園に行って働いたりして、他の僧達ともうち解けて暮らしていたが、しかし雲水の和尚はもともと寺に属する僧と違って、ながくじっとしていることができなくて、何日かの後、彼はついに修拡寺に別れを告げた。
光陰は矢のごとし。
慌ただしく1年過ぎ、2年目の早春2月、河岸の葦の芽がやっと水面に現す頃...
ある日、あの雲水の和尚が突然また修拡寺にやって来た。彼は左手に蘭草を下げ、右手は黄色い布袋を持ち、境内で草花を栽培する鉢を探すと、持って来た蘭草を植え、菜園に置いて育てた。
環境が適したため、一月もしないうちに、その多くの鉢の蘭花は競って芳い香りを放ちはじめた。
和尚達は心から喜び、こちらの盆花をすこし嗅ぎ、またあちらの盆花をすこし嗅いでは、口々に言った:“すばらしい、本当にいい香だ。”
みんなで蘭花の鉢を捧げ持ってくると仏殿の前の石段の左右双方に置き、寺にお参りに来る信者や参拝者達が観賞できるように供えた。
人は常に言っている:“縁があれば千里の道でも来て出会う。”
この蘭花は開放すると、意外にも嘉興の多く愛蘭同好の士が修拡寺にやってきて、南湖のあたりに住む楊という老人は雲水の僧と更に話が合って、だんだん深く友情を結ぶようになった。
話の中から老人は僧の蘭花が四明山から出たものであることを知った。
 さてこの嘉興は浙江の北杭の嘉湖のデルタに位置して、江南の水産物や米の豊かな土地である。
昔から軍事家が必ず争った地で、清朝咸豊の末期には、清軍と太平軍は一帯で激しい争奪戦を展開した。(歴史上“三屠嘉興”と称している)
当時多くの人たちが戦乱で死に、また逃げる者は逃げ出して、全体、嘉興城は一面荒れ果てて見る影も無くなった。 
楊老人一家は早く逃げのびたので、運よく災難を免れることができた。
戦乱が静まってしばらくして、老人が再び故郷に帰ってみると、多くの親籍友人は命を落とし、修拡寺も一面廃墟になって、ただ落帆亭のみ残っていた。あの仲良かった雲水の僧は、生きているのか死んでいるのか、行方はわからない。
老人は独りでひとしきりうろうろし、寂しく落帆亭の下に座って、滔々と流れる運河の水を眺めながら暗然として涙を流した。
 数日後、楊老人は田舎の親戚を訪ねた。
途中、彼は突然、木魚の音に続く、“南無阿弥陀仏”の声を聞いて篤くなった。
老人はじっと聞く:とても聞き覚えがある声“ああ、あなたか!”この意外な出会いに老人はしばらく驚喜して声が出なかった。
2人は出会って、悲喜こもごも至り、雲水の僧は語意探長に言った:
“劫数かな、私は各地を転々として住まいが定まっていない、あなたにお願いしたい:すぐに修拡寺に行って蘭花を救ってやっていただけないだろうか。”
翌日、楊老人は修拡寺に行き、彼は崩れ落ちた壁と垣根に直面して、蘭を育てていた場所を探し当てると、瓦礫をかき出して、小石をどけ、ついに蘭草を見つけ出した。すでにほとんど枯れしぼんでいたが、ただ1鉢だけまだ緑の葉の数片が残っている株があった。彼はしみじみとこの緑色の不完全な蘭草をながめると、家に持ち帰り植え直した。
老人は一心に育成し、翌年蘭花は再びいくつか新しい芽を出した。同治の頃には、立派な10条ほどの株になり、それ以後蕾があがり花が咲いて、老人は喜んだ。
更に老人を喜ばせたのは花が変化に富んでいることである:同じ鉢中で梅弁花が咲いたり、梅型水仙弁が咲いたり、また杏仁弁花が咲いたり、千姿百態で、本当に得難い。
老人はしみじみとこの蘭花を眺めて、また雲水の僧を思った。
心中考えた:雲水の僧はいつも合掌している、この花は三弁まろやかな円弁で一字形の平肩を呈して、下部の1本の花茎を合わせると、“十”の字になるではないか、“十円”と名付けよう。
 戦後数年のうちに、多くの蘇北、紹興、余杭の人は次々と嘉興に移り住むようになり、嘉興城は急速に活力を回復させていった。
 咸豊2年の春日、余姚の蘭客の張聖林は嘉興に着いて、楊と言う老人が南湖あたりにいて蘭を多年育てていることを聞き及び、彼は老人の住所を探し当てた。
老人の家に入ると蘭花が盛んに咲いており、特に一鉢の三弁が広々として、付け根のしまった丸い花を見て、この花を売ってほしいと老人に申し入れた。
老人は断って言った:“この花は私のものではない。”
張聖林はそれを聞いて、心中がっかりした。
しかし、老人がこの蘭花の曲折したいきさつを紹介するのをじっと根気よく聞いて、老人の気持ちを理解することができた。
老人は張聖林が四明山から来たことを知って、やっと安心して言った:
“私はすでに高齢だ。願わくはこの大難を生き延びた花を彼女の故郷に持ち帰っていただけまいか。これはこのおいぼれとあの高僧の共通の願いだ。”
張聖林は蘭花を両手で捧げると、至宝を手に入れたかのように、何度もうなずいて言った:
“必ず、必ず。”
張聖林がこの蘭花を得て、余姚に持ち帰ると、何人かの蘭友達に分けた。蘭友達は長期間養てる中で、この十円という品種の花の咲きかたに常に変化があることを見つけた。
弁形が同じでないばかりか、青軸、赤軸があり、後代の人はまた“集円”とも呼んだ。

                  莫磊 陳徳初

  東方蘭花網 より
  山本 猛 訳

原文を見たい人はここから ↓
  http://www.orchid-cn.com/ysqw/rygs.htm

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中国春蘭銘花”宋梅”

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丈夫でよく増えるので日本でも中国でもずいぶん安価に入手できますが今でもこの花に勝るものはないんではないでしょうか!?

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宋梅の故事

中国の<東方蘭花網>というサイトで見つけた記事を翻訳してみたので紹介します。

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 浙江紹興の会稽山のあたりに、戸数40、50戸の小さな村があり、村の人は皆宋姓であったので、この村は宋家店と呼ばれていた。
清の乾隆年間の頃、この村に宋錦旋という商人がいた。
彼は紹興産のお茶や山の産物を杭州、蘇州に運んで売り、そこでカランや木綿地などの日用雑貨を仕入れて帰っては紹興でまたそれらを売る商売をしていた。
商売が順調にいき、10年を経て、彼は小さな店を構えていたが、次第に店を大きくして、当地では有名な裕福な家になった。
 この宋錦旋は裕福ではあったが、しかしもともと貧困の出身であったから、生活に困っている郷里の人達に対して、いつも非常に同情して、度々いくらかのお金や食べ物を援助してあげた。自身は酒もたばこもたしなむことなく、質素な食事と清貧な暮らしに満足していたが、ただ蘭を育て愛でることだけは彼の人生最大の楽しみで、いつも1鉢のよい蘭花を得るために金を惜しまなかった。
 彼の家の近くの山には、蘭花があった。
春の仕事が暇なとき、彼はいつも竹かごを背負い鋤を手にして山に蘭を採りに行った。
しかし数十年苦労して探し求めたにもかかわらず、1株のよい蘭に出会うこともできず、彼の心の中はいくぶん悶々とするものはあったが、それでも落胆することもなく、無心に探し続けた。
また1年が過ぎ、元宵節を過ぎて、大地は次第に暖かい湿った気につつまれて、茶木の新緑が萌える季節となった。
夜、宋錦旋は独り床に横になりながらまた蘭のことを思い起こし、独り言を言った:“至る所蘭を探し求めたが、良い株を見つけるのは本当に難しい。
私は水に映った月を採ろうとしている猿のように無駄なことをしているのではないだろうか?”考えているうちに、彼は続けざまに何度かあくびをすると、頭はうとうととしてきた……
 突然、彼は白髪の、斜め襟の衣服を着、両手に玉の腕輪をした、年の頃は60過ぎの老婆に出会った。
彼の前に1人の年の頃15、16歳の娘を連れて来ると、礼儀正しくお辞儀をして言った“この娘は私の近所の娘なのですが、両親を亡くし、まったく寄る辺がありません。私は先生が他人の困苦に同情し、よく人を助けるてくれると聞き、この娘を連れて来ました。下女として、ただ衣食を満たしてやっていただくわけにはいかないでしょうか?!。”
話し終わると、老婆は一種の切望の眼差しで、宋錦旋の回答を待っている。
宋錦旋は子細にこの小女を見ると、着ている衣服は襤褸ではあるけれど、しかし澄んだ目と眉は利発そうで面長で端正な顔立ちは、本当に美しく気品があり、思わず何分かの感慨を禁じ得なかった。
彼はすぐにうなずき、そして言った:
“お婆さんの話はよく分かりました。私ももともと貧しい家の出身です。貧しい者同士、隣人同士お互い助け合わなければならない。これは里の古い言い伝えだ。
彼女を私の養女にしましょう!お婆さん安心してください。”
老婆は娘を残して、何度も頭を下げ、感謝の言葉を言った。
宋錦旋もていねいに老婆を門口まで送り手を合わせて別れを告げた......
 ゴロゴロと鳴る春雷の音に宋錦旋は驚いて目を覚ました。気を落ち着けてみると、さきほどの出来事はすべて夢の中のことであったと知った。
したたり落ちる春の雨音を聞きながら、一心に夢の中のことを考えると、彼はしばらく寝つかれなかった。
 何日かの後、風も穏やかで暖かな午後、宋錦旋はまた蘭を探して山に登った。
彼は蘭が日陰の斜面にあることを知っていて、多くの蘭を見つけはしたが、どの花もつぼみの先は釘のようにとがってやせていて、色も薄く葉幅も細い駄花ばかりであった。
ひと山またひと山と引き続き探し求めた。
山中、春風は顔をなで、鳥達はさえずり、静寂な雰囲気....。
宋錦旋は蘭探しのおもしろさに没頭し、ふと頭を上げて見ると、空の果て赤い日はすでに西に傾いていた。
彼は疲れきった足を引きずり、幾ばくか失望しながらゆっくり山を下りて行った。
途中、ちょっと油断して、山道の出っ張った石につまずいて、仰向けに転んでしまった。
幸いにもそこらはゆるやかな斜面だった。
彼はゆっくり起きあがりかけた。
ふと向こうのイバラの叢の中にそよ風に揺れる一株の蘭草を見つけた。彼はこんなやせた土に蘭が生えているはずがないのにと不思議に思いながら、近寄ってよく見てみた:
この蘭の葉は夕日の下で緑は濃く広々としている。つやつやと光り、しなやかに湾曲して、よく調べてみる値打ちがあるように思えた。
更によく見ると:蓮のように太いつぼみ、彼は思わず身震いした。
心の中で思った:半日来全く収穫がなかったが、今、こんなよい花に出会う事ができた!?
彼は袖をまくり、掌につばをはくと山鋤をしっかり握って、まず蘭の周りのイバラを除き、それから慎重に蘭を掘り起こした。それをかごに入れると、急ぎ山を下り、家に持ち帰り鉢に植えた。
 10数日たち、蘭は春の日に促されるように、ゆっくりと花蕊が成長して、ついに開花した。
この花は葉から高く上がり、平肩で軸は青く、三弁は浅緑、緊円で、先端はとがり、三弁の周辺には白い覆輪がはいり;蚕蛾捧心、劉海舌、葉は幅広で先端部は丸く、渾然一体となって対照の妙をなし、その姿は少女の如く優雅だ。
しなやかで上品な姿。
宋錦旋はこれが確かに梅弁の最高級品であると分かって、至宝を手に入れたかのように喜んだ。
彼は朝見て、昼に見た:昼間見て、夜は灯をともしてまた見て、それでも依然として見飽きることがなかった。
彼は半月前に見たあの不思議な夢を思い出した……“あ”!
彼ははっと悟った:この蘭の葉姿、楚々として心を打つ花形は、夢で見たあの娘ではないか!?
それから、宋錦旋はいっそう心をこめてこの鉢の蘭を育て、そして自分の名をとって“宋梅”と名付けた。
その後200年余り、江蘇・浙江一帯の蘭を育て蘭を採取する人々は次々と新しい多くの梅弁の蘭を探し当てたが、しかし宋梅を越えるものはなく、宋梅はその後ずっと梅弁の手本であり、梅弁の典型的な代表であり続けた。

                    莫磊 陳徳初

    東方蘭花網 より
    山本 猛 訳

原文はここにあります ↓ 
  http://www.orchid-cn.com/ysqw/smgs.htm

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